一年のうち、極稀にメンタルが限りなくマイナスになる時がある。長い時間ではないが、衝動的なものに近い。「魔が差す」とはこのことだろうと思うその瞬間が稀に。しかもそれは突然やってくる。過去の恥ずかしい記憶や失敗を思い出して悶えてなるものではなく、現状に絶望と言うか、もう全部終わりにしよう、そうしようと体が動き出す瞬間だ。きっとこの衝動があるからこそ突然の死はあるんだろうな、と思う。
最近は兎にも角にも体調が悪い。と言うか、自分に疾病があることが顕著にわかる状態で憂鬱でもある。なかなか本を読む時間を作れなかったり、日々の目的を達成させることが難しい状態である。かといってゆっくり休む必要があるわけではない。が、多分、今日は寝不足だからだろうか、メンタルが安定しているとはいえない。不摂生を見直したいと、体を悪くするたびに忸怩たる思いで憔悴し、自分自身に苛立ちを覚えている。さて、人生はどう転ぶだろうか。
ラジオからyesterday once moreが流れてきた。歌詞の通り私の高校生の頃を懐かしく思い出していた。暑い夏の日に焼けたアスファルトに揺らぐ陽炎を背に水平線を見て、近く訪れるであろうこの故郷との別れを考えながら未来を夢見ていたあの頃を思い出すのだ。今はその未来にいる。遠い遠い未来。果たしてあの頃の自分は今の体調不良な自分を見て何を思うだろうか。
インスタを見て、たまに流れてくるリノベ物件の広告をぼーっと眺めていたら、ワーキングスペースで夫婦で座って作業しているシーンでなぜか、昔好きだった人とその人の彼氏の姿を重ねて、あぁ、羨ましいなって思った。物件と彼らには何の関係性もなく、私の妄想だけでそう思ってただけなのに、とても気持ち悪いくらいに傷ついている自分がいた。あぁ、自分には一生こんな家にも住めないし誰かと暮らせることなんてないだろうな、と、想像した瞬間にもう、生きてなくてよくない?とすべてを投げ出したい気持ちになった。その瞬間「そんなふざけたことがあってたまるか」と声に出して、お茶を一気に飲み干した。どうやら自分はとてもしぶといらしい。
しばらく焦がれるほど会いたい人がいないと思った。あの人に会いたいから頑張るといった人がいない。会える人には会っていて、遠く離れた人とは連絡を取っている。私は名も無き≪あなた≫に依存していただけなのかもしれない。むしろ機会というものを待っているだけなのかも。会いたい人は、いた。でももう会えない。空虚だ。「他者への没頭はそれが支援であれ、妨害であれ、愛情であれ、憎悪であれ、つまるところ自分から逃げるための手段である」そう言ったのはエリック・ホッファーだったか。せめて遠く離れた会いたい人には会いに行こうと思う。行きたい場所に行こう。
今年の秘め初めは2連続だったためにものすごい体力が必要だった。流石に別々で2人を相手にすると体力の限界を感じた。発展場や3Pとはまた別に疲れるものだ。若い頃には抜かずに3発くらいやれそうだったのにな、と失った時間を惜しく思う。乱れた性生活を送っている自分を顧みたときに、思う。自分は意外と若い人が好きなこと。顔だけで抜けるって人とやると早漏気味になること。そんなくだらない知見を深めていく。もう二度とできないだろう人とたまたまできることになった時に、あふれだす悦びがある。そんなときには自信をもって臨みたいが、途中でいつも自分じゃない誰かのほうを望んでいるんじゃないか?と不安になる。自分に置き換えたときにセックスはセックスで良い悪いはあまりなく、楽しめたか退屈だったか、相性がいいか合わなかったかくらいしかないのに、不安になる。これが3Pならこの人をもっと楽しませられるんじゃないかとか、もっとモノが大きければ良かったのにとか、そんなことを思うほどに気がそれてしまう。集中できていない。誠実さが足りないんだと気が付く。自分の経験を誰かと共有したりできなかったり、感覚的な部分が多いセックスだからこそ難しい。だからこそ慈愛の乳首攻めと慇懃のフェラチオ、静動の腰使い。これらをもって臨んでいきたいし、今のところこれしか武器がないのだから。血や暴力とセックスを合わせることが苦手だからこそ、丁寧な自分でいたい。セックスの時にそんなことを思う。
死にたくなる衝動に任せて書きなぐってたら、どうでもよくなってきた。
「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」ってか?