とりふねのブログ

性に関する雑記です。

朝焼け

明け方の空は白むというより、濃い藍色が薄らいでいくようで、その変化を眺めるのが好きだ。暑くても寒くても、ベランダに出て煙草に火をつける。空に白煙を混ぜてるみたいだ。昼間は車の往来が盛んで賑やかな大通りが、夜の間は少しだけ、静かだ。ベランダから少しだけ静かになった通りを眺める。人がいないわけではない。昼間の目的を持って歩く人々とは少し違って、どこか目的もないように歩くようだ。帰る場所があるから、帰りたくない。本当に帰りたい場所に帰れない。歩く足取りが、そんなことを想像させる。目線を上げれば、遠くに見える高層マンションの障害灯の点滅と、疎な家々の明かり。明かりのない部屋と通りの人影の足取りがそんなことを妄想させる。

「眠れないんだ」と言った夜の間話を聞き続けた日も、飲み明かしたり、踊り明かした日も、あの人を抱いた帰りも、泣き明かした後も、この色の空を見て綺麗だなと思った。

誰にも知られない景色を、本当は誰かに教えたい。誰かと一緒にこの空を見たい。本当は、あなたと見たかった。そんな景色だけが増えていく。いつか誰かになんて思わずに、自分だけのものにしてしまおうよ。

この美しさを伝える絵が描けたなら、あなたに描いて見せるでしょう。この切なさを伝えられる写真を撮れたなら、すぐに送れるのに。この静かさを伝えられる音楽を作れたのなら、あなたの前で奏でられるのに。何も持たないままだ。

今日もまた蒼い朝が来る。誰にも伝えられない朝を、何度も書き続ける。伝わらないから伝えたいと願って。

忘れるくらいでいい

雨の日の電車の中で、外を眺めていた。雨粒が窓にあたって尾を引く。

目の前の席に座る外国人がかつての恋人に似ていた。可愛いその横にもふっくらとした可愛い人。お揃いの指輪をはめた手がたまに体に触れ、何も言わずに目が合って笑い合う。それは僕にはついぞ叶えられなかった姿のように見えて胸が痛かった。何が悪かったんだろうかと思ったのは尾を引く哀愁と執着か。

明日もわからない人生でも、予定を立てている。それなりに今日を生き延びる漠然とした楽観主義か驕りがあるんだろう。明日もわからないなら、誰も知らない街に行けば、新しい出会いがあって、知らない自分になれるだろうか。そんな妄想をする。

昔の恋人の写真が流れてきたsns。仲良さそうに隣で笑う人は、私には似ていなかった。当たり前だが、そこにはかつての熱情もないが、羨むよりも僕自身と比べてしまうのは、昔の恋人は自分より少し不幸であってほしいと願っているからだろうか。

一緒にいたいと思った人は、今はもうどこにいるのかわからない。こいつを幸せにしてやると思った人は今僕以外の腕の中で寝ているだろう。でもそれで良かった。幸せの手助けができたのなら。そんなことを思いながら、私自身が報われることを願っている。

恋人が自殺した貴女が突っ伏した道端で、貴女の頬をはって立たせ葬式に連れて行った朝も、カッターナイフで腕を切る君の姿をずっと眺めて気が済むまでやらせた夜も、このベランダから飛び降りたら楽になれるかな?と言ったあなたを抱きしめた日も、全部、僕が救われたかったからやったことで、その後の人生の責任なんて取るつもりなんてなかったんだ。必死になって集めたコレクションを手放して気が付く。愛着なんてなくて、埋まらない心をただ埋めたかっただけ、癒したかっただけだ。

足りないなにかを埋めるように今も書いている。物語が書けないのに、物書きのまねごとを続けている。なりたかったものはなんだ?誰かを救いたかったのか?自分のSOSを届けたかったのか?埋まらない穴は何か?恵まれなかった身体か?認められない自分か?無償の愛なんてないと知っているのに、寂しさをおぼえるのはなんだ。世界を呪っても意味がないことを知っている。なのに人肌を求めて性欲のはけ口程度で出会いを繰り返す愚かしさを少しは見直せよ。

 

雨上がりの公園で話した友人は、これまでの色恋の人の多くと縁切りしてきた。そんな友人が今年に入って、別れた恋人に対して「初めて寂しさを知った。でもそれを教えてくれたあの人には本当に幸せになって欲しい。離れてしまったけど、私は自分のために生きて、自分を磨き続けて、もっと自分を好きになって、もしまた出会うことができたなら、後悔させたい。多分向こうももっと素敵になってるはずだから、お互いに後悔し合えるようになりたい。」と言った。梅雨晴れの月明りが頬が濡れていることを教えてくれた。40になるときにはじめて寂しさを知ったと言った彼の強さは、切ないものだが、代えがたい、信念にも感じた。彼のような強さを僕も持つことができるようになるんだろうか。

 

あの日、死にたがっていた君がまだ独り身でいることに、少しの安堵とそれ以上の鈍痛がする。あの日泣いていた君をどんなに抱きしめても満たせないのは知っていたのに、引き留めてしまった僕は偽善者だと思う。君を生かしてしまった僕にはどんな罰があうだろうか。何者にも成れないことこそが、僕にお似合いじゃないだろうか。

ただ。ただ、僕は君が生きてくれて本当に嬉しいと思う。君がかなわない恋をしようとも、君が誰とも添い遂げようとしなくても、僕は君が生きているだけで僥倖だと思ってしまう。君の後悔も、君の絶望も、君の諦観でさえ僕の都合で台無しにしながらもそう思うんだ。

だからこそ、何かを羨むよりもそれを欲しがりたい。叶わないことを羨まずに欲しがりたい。欲しがって成りたくて、叶えたい。叶えたいを掴みたい。それを忘れたくないと無責任なまま思いたい。僕は君の汚点でいいから、恨んでも、同じように強く何かを願ってほしい。

ただそれだけを。今はどこにいるかわからない、そんな仲間たちに。お前はこんなくそみてぇな話をしたら、詰まんなそうな顔で、どうしようもないことに悩んでないで、悲しむだけにしなよと言うだろうか。言ってくれ。お前がいない未来なんて詰まんない。そんな僕のために。

How to Sex

「つまらないセックスをしたんだよねー。」

たまに聞くフレーズであり、私自身にも経験がある。

特にゲイはセックスにカジュアルであることが多いからこそ、つまらないセックスというものを味わう機会が多いのかもしれない。

 

私は発展場でセックスをする時以外には、できる限り希望をヒアリングすることが多い。多分、3年前くらいからだ。

まずは「どんなセックスがしたい?」と訊いてみる。けれど、返ってくる答えのたいていは『普通のがいいです。』という、曖昧なものだ。私には、その「普通」がわからない。セックスの「普通」の基準なんて、砂の上に描いた境界線のようにあやふやなものではないか。

例えば乳首は感じるのか。どんな風にいじってほしいのか。嚙んだほうがいいのか、嚙まないほうがいいのか。もし噛んだほうがいいのなら、その強さはどのくらいが心地よいのか。

世間の人は「そういうことは、その現場でトライ&エラーを繰り返して、身体で知っていくもんだよ」と言うかもしれない。けれど、事前に少し言葉を交わし合うだけで、お互いが本当に楽しめる時間を長く確保できるのだとしたら、その方がずっといい。そう考えてしまうのは、私が効率を追い求めすぎる「効率厨」だからなのだろうか。

『普通のがいいです。』と言われた場合には、続けて質問をする。「じゃあ、されたら嫌なことは?」大概は『乱暴なことはちょっと』とか『スカトロは無理』とか。これがアブノーマルだと一般化されているのが私は納得がいかない。そもそもアナルセックスはスカトロの一歩手前みたいなものじゃないか?ケツ舐めは?挿入後のチンコを舐めるのは?その後キスするのは?普通とは何か?と私はつねに疑っているのかもしれない。

また、コンドームをするかどうかの決定権をどちらかに委ねるようになってきたと思っている。タチがゴム持っていてほしいとか、ゴムしないのは危ないとか、そういう感覚でさえ最近は薄くなってきていると思っている。生がいいとか、PrEPしてるとか、U=Uとか、ゴムしてとか、そういうことをはっきり言わずうやむやになっている。

 

セックスの前にこんな風にヒアリングをするとたまに『え、プロなんですか?』とか『売り専してました?』と聞かれることがあるけれど、本当に滅相もない。プロには到底及びませんし、イケる人以外に勃起できない不能ものです。

私は考えている。

「最高のセックスとは何か?」

最高の快感を、この身体で、いつか味わうことができるのか。そもそも自分のドンピシャの顔と体の相手に射精できることが最高なのか?相手が嫌がっていることを無理やり押し通して満足できるほどのサディストではないし、自身の嗜虐心を満たす行為に酔えるほどナルシストではないと思っている。であれば、どうすれば最高に到達できるのか。

「くだらないセックスとは何か?」

かくいう私も、たくさんの失敗を重ねてきました。タチ受の確認をせずに出会ってしまったせいでお互い微妙な空気のまま解散したこと。相手のことが好きすぎて、緊張して中折れしてしまったこと。挿入がうまくいかず萎えてしまい”前戯だけの男“と言われたこと。相手にリラックスさせたい一心で、献身的に体を温めるように抱きながら体のラインをなぞっていたら、気がついたら寝かしつけていたことから”人型のテンピュール”と呼ばれたこと。

思い出せば胸が痛くなるし、顔から火が出ると思うほどに恥ずかしい思い出ばかりだ。けれど、それらすべての失敗が「くだらないセックス」だとは思っていない。

失敗したときに思い出すのは、ハイキューの武田一哲のセリフだ。

そして君は今、”がむしゃら”だけでは越えられない壁があると知っている。

その時必要になるのは、知識・理性、そして思考。

今この瞬間も「バレーボール」だ勝つことを考えて下さい。

君の身体はこれからも大きくなるでしょう。けれど、ネットという高い壁越しに行う競技で、190cmが「小柄」と言われるバレーボールの世界ではきっと君は、これからもずっと、「小さい」。他人よりチャンスが少ないと、真に心得なさい。そしてその少ないチャンス、ひとつも取り零すことのないよう掴むんです。

…君は、君こそは、いつも万全で、チャンスの最前列に居なさい。

若い頃のように、がむしゃらな勢いだけでのセックスは年齢を重ねるごとに難しくなっていく。昔は同日3人3射精なんて余裕だった。今となっては足が諤々と震え、勃起薬を飲んでいても中折れしかねない。

その時にこそ知識・理性、思考が生かされる。3人とやるなら、射精は1回にしようとか、抜かずに貯め、筋トレするといった工夫(?)が必要。

自分は小ぶりなほうで、イケメンでもいい体でもない。人よりチャンスが少ないと思っているからこそ、セックスに貪欲なのかもしれない。ブスだからこそ、失敗を、恥ずかしさを、不甲斐なさを、くだらないと冷笑してしまいこんだら、いつか、セックスが出来なくなったときに、そんなくだらない冷笑を思い出にしたくないと思うのです。

セックスの中のヒアリングとネゴシエーションは、自分のために、最高への、自分にぴったりのセックスを探す道しるべのヒントかも知れない。

涙の路銀で支払ったグラフキューブ

川沿いを歩いた。
遠い日を思いながら。

「本当に爽やかな朝、天気が良くて景色が綺麗で、窓を開けると潮風が吹いていて、鼻が潮の香りでいっぱいになって、この町で生まれた頃から嗅いでいて何も変わらないのに、電車がカーブに差し掛かり少し速度を落とした音が聞こえて、そんな日はあぁ本当に今日死にたいなって思うよ。夜も一緒、雨上がりや月が綺麗な日の夜風が気持ちよくて駅の歩道橋から市街地をみるとまっすぐ綺麗に街灯が並んでいて、なんて綺麗なんだろう、こんな日に死ねたらと、そんな日はいつも思う。親より先に死んではいけないと幼い頃から刷り込まれてるから生きてるだけで、みんな生きる理由なんてそんなもんよな。」

そう言った彼を羨ましく思った。


僕の故郷には嫌な思い出が多いから、早く離れて違う街に行きたくてしょうがなかった。愛のある思い出はあるけれど、僕には呪いのようだったから、生まれ育った街の匂いを感じると不安になる。
この街で生まれてっていう感覚が本当に羨ましい。
だからだろうか、特に暑くも寒くもない暖かい陽がさしてカーテンが揺れてる中、特にすることもなくて、少し眠いような昼下り、何でもできるし、何もしなくてもいいそんな幸せな時間にさえ、心から早くここからいなくならなきゃって思いがある。
すべてが満たされることなんてないんじゃないかって思ってしまう。
夜の静かな場所で聞こえてくる波の音さえ憎かった。僕のすべてを阻むものに感じて。海が好きなはずなのに、怖いのかもしれない。

 

死んでもいい日なんてない。でも今日は死ぬにはもってこいの日だ。

 

あぁ、思い出すのは桜の花びらの中で笑うきみ
その数か月後にビルの屋上から空を目指した。
きみにとっては死ぬにはもってこいの日だったのか?
あぁ、思い出すのは熱を帯びた春の夕暮れ
夜の驟雨は冷たくなったお前が降らせたのか。

今日が偽物なら一体いつ本物になるんだろう。
誰も悪くないよ、もちろん君もね。
そんなことを言えなかった。
君が許されないなら、一体誰に許しを請えばいいのだろう。
君は悪くないよ。
僕が言えばよかったのにね。
二度と会えないかも知れない人を思い出して、
何も後悔ないなんて言いたくない。
叶わないことも、間違ったことも、
いつか正解にしたいと言い訳して、
今ばかりに必死になって思い出になってから
自分を納得させてるんじゃねぇよって。

 

生き着いた先は死だから、死に向かうってことは前を向いてるのと同じなんじゃないかって。だから、死を思うことも後ろを向くことじゃない、過去を羨むことこそ後ろ向いてるんじゃないかと、思う。メメントモリ。日常にある美しさ?調和?普遍?みたいなものを受け入れて、世界のひとつだって自分の大きさを知る瞬間。誰にでもあるようで、誰にも当てはまらない瞬間。望むものが手に入ったような、手に入らなくてもどこかにあるような、そんな感じでここで終わってもいいなって瞬間を待っている。

昔、好きな人に、寝る前に耳を塞いでほしいって言ったことがある。脈がまるで沿岸の潮の音みたいなのに落ち着いた気がする。それは満たされた時間だったと思う。そんな日は、死ぬにはもってこいの日かもしれないけど、逃げてるみたいだ。
穏やかな死が欲しい。悔いのないように生きたいはずなのに、どうでもいい気もする。

 

川沿いを歩いた。
遠い日を思いながら。
あの日、一緒に歩いた人はもう違う誰かと寝ているけど。
川沿いを歩いた。
遠い日を思いながら。
あの日、一緒に歩いた人はもうどこにいるかわからないけれど。
遠い日を思いながら。
あの日、死の淵を彷徨った人は元気でやっているよ。
あの日は、まだ鈍痛がするから、
今日は死ぬにはもってこいの日だ。でも、まだ謝れていない君に会いたい。会いたいよ。

今日は死ぬにはもってこいの日だ。でも、まだ見たことのない草原で、まだ見ぬあなたに出会いたい。


そんなことを思いながら川沿いを歩いた。

果てのない空に

特急の車窓から通り過ぎる街並みを眺めながら、いつか降り立ってみたいとぼんやり思う。でもそんな日は来ない。なぜなら今日がその日ではないからだ。「いつか」はいつまでもやってこないから、何かきっかけを待つような感覚だけで、本当はさほど求めていない気がする。だから、自分の中には見当のつかない日常や、青春がどこかにあるんじゃないかと探してる。本当は君のいる日常を味わいたいのかもしれない。

 

僕らはいつも会うたびに、お互いの顔をなぞり合って『本当に此処にいるんだ』って笑い合いながらキスをしたね。じっと心を覗き込んでくるようなその目が好きだった。好きなものを楽しそうに話す君の声が好きだった。あぁ、忘れたくないな。

 

今日が最後になるんじゃないかって、漠然と思ってた。でも僕らは変わらないとも思ってた。本当はさ、君の特別になりたかっただけ。他の誰と寝ていても、僕だけを思ってくれていたらそれだけでいいような、そんな自分勝手を思っていたんだ。君の特別になれている気がしていた。

 

叶った夢の分だけままならない今を、叶った分だけ不自由な今を謳歌するなんてできない、まだ君を諦めきれない。

儘ならない今を投げ捨てて、叶わなかった未来を繋ぎ留めたい。君がいないなんて想像したくない。

 

悲しい出来事の後にくる、幸せな物語は僕らのものではないと知りながら夢を見る。僕らはまだそこじゃない。そうと知りながら、「いつか」を僕は思っている。忘れ去られてもこの思い出だけは僕の中で息衝いているから、明日を思える。だから、僕をみつけてくれた君と歩く街並みや、君の目に映る景色に僕がいたらなんて思ってる。本当はそんなことを伝えたいだけかもしれない。

 

今日僕が見たふたりは、距離を言い訳にしなかった。僕たちにはできなかった覚悟を持っていたんだ。テクノロジーだけじゃ足りない、思いが距離をこえる方法を知っていたんだ。僕らにもそんな奇跡みたいなさ、思いがあったら良かったのにな。でもね、でもね、君を諦められないんだ。

 

叶わない思いを不安定な日々の中で抱えながら育んだ時間。思わず叶った今、はにかむ笑顔に嬉しくなる瞬間。

僕には訪れることのなかったものを、美しいなんて思っちゃうんだ。ほんとは君が隣にいてくれたらなんてね。

 

ずぶ濡れになった郵便ポストも、誰かに思いを届ける宿り木。迷っても迷っても必ず見つけるから、困ったらさ、必ず呼んでよ。声が枯れる前に必ず見つけるから。

 

 

アクシズファムポエティック2026年

タイトルの「アクシズ」は本来アクシーズとなるはずのファッション用語だが、私としてはガンダムアクシズからとってこのように変えた。特に意味はない。

 

最近、このブログの方向性というか、書き方をどうしようかと考えている。そもそも個人のブログだから本人が好きにしたら良いのだが、ポエティックに統一したい気持ちと、いろんな文体で書きたい気持ちがひしめき合って迷子になっている。

文体は気分で変えたいがそれだとなんだか陳腐にも見えてきてしまう。作家はその流派に沿った文もしくは個性を持っているはずだからそれに合わせたモノが好まれる。ただの素人のブログに何を言っているんだ、ただの書きながらなのだからと思うが、素人だからこそ整えたい気持ちもあるし、こだわりを持ちたいという自我を好き勝手するのも個人の自由だ。とか言いつつも、誰に読まれているかなんてわからないから、どうでも良いような気がする。

このブログを書き始めようと思った理由は、セックスと恋愛について個人としてただ書きたいと思ったからであり、誰のためでもない。強いて言えばストレス発散のために書いているようなモノだ。定期的に読んでくれている方は本当にありがたい気持ちでいるのだけれど、人の目を意識するとすごく、表現が鈍るような感覚がある。

もちろん本当に書きたいことをそのまま書くと個人情報や誰かを特定できる可能性があるのでそこはぼかして書いている。

数年前に記事を読んだ方から非常に長い文章(わたしがデータを用いて書いたことに対しての反論でした。)をTwitter(当時)のDMでいただいたことがあるのだけれど、「あなたのご意見はどうぞあなたの活動の場でお書きになって下さい。」とお返事したら『僕はあなたと議論がしたくたらメッセージしたのに失礼だ!』と返信が来たことがあった。なんだか話が通じない人だなあと感じたことを覚えています。まぁ、そんな方はどこにでもいるし、わたしなんて小さな小さなブログを書いているだけで、何千人何万人とアクセスがあるような方からすれば大したことではないんですが、それからデータを使って文章を書く方が好きだったわたしは面倒くさくなってしまって、あまりそんな文章は書かずに、主観的なことだけを書くようになったわけです。

そのためにこのような文章を書いているわけなんですが、今後としてはその姿勢も辞めて、データも使いながら色んなことについて書いていきたいと思っています。

そして、もっと直接的な性描写を書きたいと思っています。今までの性描写についてはある程度、ポエティックにしてぼかしていましたが、それを今年は辞めてみようと思っています。

 

そんなわけで2026年は違う形で進めていきたいと思います。

またコメント欄については今年も閉鎖したままで行こうと思っております。そして更新頻度は上げるつもりです。

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

報われない日々を憐れむより。

ものの伝え方には、さまざまな言い方がある。

「今夜、一晩中あなたを抱きたい」と言えばどこか叙情的で情熱的だが、「今夜中ずっとお前のケツ掘っていたい」と言えば肉欲しか目に付かなくなるように感じられる。感じ方は人それぞれだが、この2つのセリフは同じセックスを指してるのに、隔たりがあるように見える。

人によって話し方を変えるのは、現代社会を生きぬく知恵だと思うが、いつも空に消えるような意味のない中身のない会話するのはとても面倒くさい。が、相手に何を話したらいいかばかり考えて内容のない会話をするようなこともある。

レディースコミックはコース料理、エロ漫画はカツ丼もしくはファストフードと呼ばれるように、エロ(メイン)がどのタイミングで来るかに差があると言う。言い得て妙だ。ゲイは男ばかりだから基本的に出会ってヤるまでの速度もカツ丼のようなものだと思っていたが、そうでもない付き合い方がある。会話をしてからセックスをしたい人も、一定数いる。

自分はどちらかと言うとカツ丼派だ。その弊害か恋人はなかなかできない。生活の余韻を感じないからではないかと思い始めて見たが、20代の頃はむしろほとんどセックスをしていなかった、というより、そういう機会には恵まれなかった。30代中頃までそうだったように思う。惚れやすい性格だからあえてやらなかったところもあるが、単純に魅力がなかったんだと思う。だからこそ、先に欲を消化して終わるような気がする。

 

ある時「可愛い子が放尿してるのを見れたんだよね〜」と話す人がいて、私はそれに何も感じなかったし、むしろあんまり見たくないという旨を話したところ、童貞の青年から「放尿を見るのは嫌なら、潮吹きも嫌じゃないんですか?」と聞かれた。

それとこれとは別だよ、と言ったがなんだかわからないと言う顔をされた。その顔を見ながら、自分も何が違うのだろうと思った。

 

好きだった人に恋人ができたと聞いた時に少しだけチクリと痛むのは、多分、自分を捨てた人は少しだけまだ自分を思ってくれていて、少しだけ不幸でいてほしいと思うからだ。取るに足らない自尊心を守るためにそんなな呪いをかけたのは自分自身だろう。きっとほんとに誰かを好きになればどうでも良くなることだろうと思う。掛け違えたように言葉の意味を、主語を、脳は理解できないから、他者に穿つ言葉も自分に返ってくるんだろう。少しだけ不幸でいてほしいと思うより、多分違う道を歩いて、早く遠く見えなくなるまで進んでしまうほうがいいんだろう。

 

この夏は本当に暑かった。汗ばむ肌を撫でる若い指を握った。嬉しそうに笑う顔を眺めていたい夏だった。一晩中抱きしめて汗ばんだ頬を見つめて眠りたかった。それができなかったのはただの臆病か、熱量不足か。