重力の井戸の片隅で

たいして急いでもいない時にでも、心にゆとりがない時がある。自分の感情の整理がつかない時や、周りの環境から心を急かされる時もあるし、さっき目の前で起こった理不尽な出来事のせいかもしれない。

郵便局に用事があり立ち寄った際、閉局まで少し時間があるにもかかわらず小さな場所で人が溢れていた。感染症の感染にシビアになっているのか、周りの様子がピリピリしているように感じた。だんだんと自分も『早く出たいな』と思うようになっていた。

用事を済ませ出入り口に行くと初老の女性が急に立ち止まりゴソゴソとしていた。立ち止まり待っていたら女性もこちらに気付いて「どうぞ」と道を譲ってくれた。脇を通り抜けようとするが、自分の体が大きからか彼女にぶつかってしまった。外に出て心の中で『狭い場所なんだから急に立ち止まらないでほしい。そもそもさっさと出ればよかったのに。』と思った。

数歩足を進めているとだんだん『なんであんなこと思っていたんだろう。急いでもいないのに、自分がゆっくり待てばよかったのでは…』と思い返していた。あの時は確実に自分が被害者のような意識でいた。なんとも言えない気持ちが今も胸に残っている。

 

交通ルールを守らない人をよく見かけるようになった気がするのは、自分が明るい時間に外に出て歩く機会が多くなったからだろうと思っている。飲食物の配達業者の自転車ながら運転、高齢者の信号無視、違法路上駐車などを目にすると、心から「いつかバチが当たればいいのに』と思う。ルール無視を指摘された輩が悪態をつきながら爆走する様を見るたび本当に死んでほしいと心から思う。

 

徳島地裁で赤信号横断の女子高生がはねられ死亡、男性に無罪判決でたときに、自分は心から納得していた。「当たり前だ、例えそれが自分の家族であってもそう思うね。」と友人に話していた。

でも今は本当にそうだろうかと疑問に思う。自分が加害者になる時も、過失を負うこともあるのかもしれないからこそ、不安になる。ふとした油断が、慢心がないことなんて無いはずだから。また、上記裁判で争った男性のことはよく知らないけれど、目の前に現れた女性が死んでしまったことで自分を責めたこともあったのでは無いかと想像すると、それも辛い。心にゆとりを、と言うのは簡単で産むは難しい。気をつけるしか無い、それが答えだとしても考えてしまうから手に負えない。

汝、悩むことなかれって答えのない重力の井戸の片隅で。