2019年7月18日から8ヶ月が過ぎた。
あの放火事件からまだそんなに時は経っていない。
事件からいろんな報道があり、風評被害も生まれ、報道のあり方についても議論が絶えなかった事件だと思う。
あの事件直後は私自身も悲しみや怒りに暮れ、体調まで悪くするくらいだった。直接は知らない、間接的にしか知ることのない人々の死や傷にこんなになるのは、京都アニメーションのアニメがとても好きだったからだ。
事件から月日が経ち、犯人について少しずつその人となりがわかってきた時に感じたのは、怒りや憎悪だった。国内外のアニメファンがYouTubeやSNSで「あいつは異常者だから死ぬべき」「あんな気狂いが存在することに嫌気が刺す」と言ったコメントが散見された。私もその通りだと思ったけれど、心のどこかに罪悪感のような棘のようなものがずっとあった。
京都アニメーションの作成した『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は主人公の両手を失った元軍人の少女ヴァイオレットが代筆屋として働き『あいしてる』の意味を知ってゆく物語。物語の中でかつての上官の兄であるディートフリート大佐から「多くの命を奪ったその手で、人を結ぶ 手紙を書くのか? 」と問われます。この台詞が私の心の中に刺さったままでいる。
かの事件の犯人を許せない、ぶっ殺したい。確実に切実にそう思っているはずなのに、どうしても「許すことで癒されるのではないか」と思ってしまう。ヴァイオレットと事件の犯人は全く別の人間だし、戦時下と平時ということも全く違う。ましては同一視してはいけないと思う。
けれど、どうしても罪悪感に追い立てられるように「許せ、許せ」と思う時がある。造られた物語の本質は償いなんじゃないか、憎悪を持つことで作品の伝えたかったものが伝わらないって虚しさがあるんじゃないかと、憎むことに使う時間は無意味だと知らしめるように。
また放火の前に犯人は他の傷害事件を起こしていた、と言う話も聞く。それを聞くたびに、犯罪者が社会に復帰できるシステムを作ったりそう言うものを作れないことが根本にあるんじゃないかとまで思い、それはまるで私自身が悪いようなそんな気までする。
堂々巡りで嫌になる、好きなものが好きじゃなくなるようなそんな不安がある。
それが正しいことだと、宗教家は言うかもしれない。でも許せないよ。もっと、もっと、沢山の良いアニメを作って欲しかった。そう言う思いがある。そんな私は自分の利益、消費のために正義感を振りかざしていると言われても仕方がない。
ある人が「許そうなんて思わなくていい」とあるメディアで言っていた。許そうと思えない自分を許す方が大事だと。答えは回復してからでいいと。
今はそう思うことが大切なんだと思う。誰しもが聖人君子ではないわけだから。