思い出という重力

「自分事ですが、失恋してしまいました。」

昨年末に一緒に映画を観に行った友人に言われて驚きのあまり言葉を失った。豆鉄砲を喰らったような顔をしていたと思う。友人も困ったような顔で僕に苦笑いを向けていた。

「あなたにでも叶わない恋があるなんて思わなかった。」

口をついて出た言葉は彼をさらに困惑させ

「ありますよ。」

と哀しそうに言わせてしまった。

僕にとって彼は『恋愛をしない人』というカテゴリーに当てはめていて、彼の容姿と行動力で“恋愛強者”ではなく“セックス強者”なんだろうな、と勝手に決め付けていた。だから思わずあんな言葉を発してしまったんだろう。彼の口から語られる恋愛模様は、曖昧な関係の一歩先に及ばないもどかしさがあった。そんな彼に僕は気の利いた言葉ひとつ言えないまま映画を観た。

 

僕の部屋は、趣味で収集したもので溢れている。

物に気分はないし、言葉を発することもない。僕の記憶だけがその物の価値になるんだろう。十数年間、集めても、集めても、満たされることがない。何か、心の中の穴を埋めるために集めてるんじゃないかと思う。そんな記憶の、思いの肥溜になっていたんだろう。

記憶と思い出に価値を持つと、それらが宿る物を捨てることにはエネルギーがかかるらしい。全くその通りだった。全てが重力を持っているみたいに重い。過去に区切りをつけることを片すと言うらしい。まさに片付けられない人間になっていた。だから片付けることを始めた。今年の抱負のひとつは「片をつける」だ。

なぜ片付けを始めたか、と聞かれたら幾つも理由があるけれど、1番大きかったのは最近「人が死んだ後の家を見たから」だ。あんなに好きなものがあった人の家なのに、何もなくなった。片付けるのはいつだって残されたものか、それを依頼されたものだけ。愛してるを詰め込んでも、心しか持ってはいけない、あの世には。虚しいとは思わないけれど、片を付けるのは自分でいたいなと、何もない部屋を見て思った。

 

失恋した彼も思い出の重力を振り切るために、片をつけたんだろうか。得るものも多いけれど、沢山のものを捨てるなら、何も持たない方がいいのだろうか。それでも僕は愛してるを集めたいと、愚かなまま思うだろう。より良い買い物を明日できると信じて。