罪悪感を越えて

昔、仏壇のある部屋でセックスをしたことがある。

事に至る前に部屋主が大戸を閉めた時に、そこに宗教を見た気がした。2人しかいない場所にもかかわらずその大戸を閉めることは、バチとか、礼儀とかって言う言葉で言いくるめられている宗教がそこにある、という瞬間だと思った。

 

知人の自死から15年が経った。早いものだ。

知人は友人の恋人だった。

友人は、長い間躁鬱を繰り返しながら生きてきた。

ふとした瞬間に訪れる希死念慮に苛まれ、叫びながら電話をかけてくることもあった。

幾度となくそんな夜があったけれど、

気が付けば15年が経っていた。

時の流れは残酷と言うけれど、希死念慮に苛まれる日々が徐々に少なくなっていくことは残酷なんだろうか。

 

友人宅に行った時に昔は遺品が部屋の目につくところにあったが、今はもうなくなっていた。

友人達からの贈り物や、仕事関係のものが丁寧に陳列されているようであった。

「彼の物はもうないね」

と言うと、『そんなはずはない』と言って探し始めたが整列された棚からは見つからなかった。

部屋のどこかに置いてあると言うが、それがどこかはわからないらしい。

 

長い時をかけて人の記憶は曖昧になり、大切なものが大切なまま、大切と言う言葉に宿るような風化を見た気がする。生きるということに対しての罪悪感を越えて、今を生きるということ。それが良いか悪いかはどう生きていくかでしかはかれないかもしれないし、良し悪しではないとも思う。

 

宗教には死後の世界があって、死に意味があり、供養にも意味があるとしているから、仏壇や神棚というのはメメントモリの装置のようで、折り合いをつけて生きてゆくことを意識化するためにあるんだろうか。

 

どうしようもない生きることへの罪悪感を償うために生きるには、余りにも人生は長い。リタイヤしたい希死念慮との折り合いは付き合うしかない。

明けない夜はないと言うが明けた朝の後にはまた夜が来る。でも日々は重なりまだ知らない今日が待っている。

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 』

今日、これから何が起こるかわからないように、人は変わっていく。心情は少しづつ変化していき予想もしない私になる。