利己的な号哭

「大阪で何してるの?楽しいの?」

3年前に18離れた従妹に聞かれたときに、

「それなりに楽しいよ。沢山の人がいるから面倒なことも多いし、お金はないけどね!」

と自嘲的に言ったことを憶えている。

私が地元を離れる数年前に生まれた従妹とは、離れていたこともあって特に話もあまりしなかったし、思い出も特にない。数年単位で会う度に小学生、中学生とどんどん成長することに驚かされていた。

3年前に会った時には、地元の高校を中退して大検を受けて違う土地で暮らしたい、と言っていた。周りは「まともに高校を出てないのにそんなことはできない」とか「勉強ができても何もうまくいかないよ」とか言っていたが、「人それぞれ向き不向きはあるから自分で決めたらいいんじゃん?知らない土地で笧なく新しい自分を見つけることに憧れを持つことは、自分で選択をすることだから自分次第だと思う」くらい言っていた気がする。それくらいしか、思い出はない。

そんな彼女が7月の終わりに自死した。 19歳だった。 

外に出たかったんだと思うが、結局、自死を選んだ。

辛いとか、悲しいとか、そう言うのはよくわからなかった。寧ろあんなに小さかった子が、自死を選ぶ自我を持ったんだ、と、不思議に思った。なのに、どうしてか、喪失感がある。雪の降らない土地で生まれ育ったから、降り積もる雪を見ないままだったんだろうと思うと胸を刺す痛みがある。

 地元の話をすると、海がきれいでしょとか、温暖で羨ましいとか言われるが、そんな素晴らしいものがあっても彼女は癒されなかったんだろう。

 

昔、会うたびに「なんか、面白いことない?」と聞いてくる知人がいた。

何か満たされないような感覚があるからか、そんなことを言っていたんだと思うが、遊んでいてもそんなことを言っていた。多分暇つぶしを与えられることでしかできなかったんだろうと思う。会うたびにだんだんと、こちらも面白くなくなってきて疎遠になった。生きて死ぬだけの人生なんて嫌だと言いながら、暇をもてあましている、そんな贅沢を見ているようだった。

 

「はよ死にたいわ」が口癖の友人がことあるたびに、何か成果を残したがる姿を見れば見るほど強い生への執着を感じた。そんな友人が冬の鍋をつつきながら「あー、いま死んでもいいわー」と漏らすから同じ死という言葉でもニュアンスが違うんだなと改めて思う。

 

従妹が自死した日に、友人と前々から約束していた「死について考える会」をした。約束をしていたとは言え、このタイミングでやるのか、と内心思った。地元に帰る飛行機はもうない。その日は、自分の予定を淡々と過ごすだけだから、なんら変わらない日のはずなのに、かなり動揺していた。感情的にならないように注力していたが、どうだったかはわからない。死やそれにまつわる出来事への捉え方を語りながら、内心(お前は本当にそんな生き方しているのか?)と何度も自問自答した。大事な誰かの尊厳を守りたいと思いながら、本当にそんなことが出来ているんだろうか。従妹の死よりも自分の生き方を憂いているようで、そんな自分もなかなか、荒誕だなと、利己的な自分に安堵した。

 

しばらく考えないようにしていても、ふと、もっと話せば良かったとか、そんなことが頭をよぎる。眼下全面に咲き乱れる桜の景色や、スラムのような雑然としたバラック街とか、輝くような夜いっぱいのネオンの看板や、電車の窓から見える落ち葉の流れる河を見せてあげれば違ったんじゃないかとか、目標も夢もなくてもそれで良いじゃんかと伝えれば良かったとか、そんなことを思う。

 

ゴミみたいな部屋で号哭しながら、あの子の自由のメンターが自分で無かったことに悔しがっているみたいな、神様になり損なった、人間様になり損なったくだらない人生を生きるんだろう。

電話ボックスと情事

中学に上がった初夏。

眩しい日差しの中、自転車で町の方にある友人の向かった。生まれ育った島は人口5000人程度。大阪の環状線とほぼ同じ大きさの島だ。町と言ってもスーパーが2件、ホームセンター1件、文房具本屋があるだけで、あとは観光業のお土産屋ばかりの町。昔は観光客がたくさん来て賑わっていたから「銀座通り」なんて名前にしてたけれど、子供の頃には観光客より、地元の人たちの方が多い通りだった。その通りで観光ホテルを営なむ友人の家に向かっていた。友人は風邪で休んでいたため、クラス委員の僕が学校のプリントを届けることになった。友人の家までは自転車で20分ほどかかった。夏の日差しが肌を焼き、汗で濡れた服が背中にピッタリくっついていた。海が見える坂を曲がり、銀座通りを抜け、友人宅であるホテルに着いた。

ホテルロビーの受付に向かい、友人の母にプリントを渡し、様子を聞いてから帰路に向かう。

海を飛ぶ妄想をしながら、自転車を走らせていた。当時、きらめく波間を越えて、どこか誰も知らない遠くの街へ行くことに焦がれていた。

近道をしようと細道に入り、細道の急な登り坂を、自転車を押して進もうと、坂の下にある電話ボックスの前で自転車を降りた。その瞬間、後ろから女の人に声をかけられた。

「×××くん!」

驚いて振り返ると、バイクに跨った女子高生がいた。一瞬、誰かわからなかった。どこかであったような気もするが、どこで会ったんだろうかと思っていたら。

「〇〇(件の友人)の姉ちゃんだよ!」

まるで心の中を覗かれてるように言われて驚いた。

そういえば友人には高校生の姉がいたなーと思いながら

『こんにちはー。』と僕は挨拶した。

「×××くん、元気ね?」

目の前の女子高生は人懐っこく笑いながら問いかけてきた。内心(元気じゃない日ってあるのかなー?元気じゃない日は家にいると思うけど…)と思った。大人になれば元気じゃなくても外に出て働く時もある。いつも気持ちはニュートラルでいることの方が多いし、多分、それを元気というのだろう。今思えばただの社交辞令だ。

『はい…。さっき、〇〇にプリント持って行きましたよー。早く元気になって欲しいね。』

年上のよく知らない女子高生から声かけられて緊張しているせいか、より一層汗をかいてたと思う。

「暑いのに、ごめんねー。〇〇もうすぐ元気になるからさー。×××くんはどこ小なんだっけ?」

『△△ですー。』

島には小学校は3つしかない。中学高校はひとつづつしかなく、殆ど皆んなが18歳まで島で過ごす。皆、知り合い。そんな島だ。

「あー!そうねー!△△なら、⬜︎⬜︎⬜︎のこと、知ってるね?」

⬜︎⬜︎⬜︎は同じ集落の幼馴染の兄貴分だった。何度か家に遊びにいったことのある人だった。

『うん、知ってるよー。⬜︎⬜︎⬜︎兄さんは家近いよー。』

そういうと目の前の女子高生はにっこりと笑った。

「そうね!⬜︎⬜︎⬜︎と仲良いの?」

⬜︎⬜︎⬜︎兄さんとは、兄さんが高校に入ってからは全く遊んでいない。道で見かけた時に挨拶をする程度だった。正直、仲が良いという感覚はない。

『昔は…。でも…兄さんはもう高校生だから…。話は少しするけど…。』

そう僕が告げると

「そっかー。そうだよね。私⬜︎⬜︎⬜︎に用事があって電話したいんだけど、家の電話ホテルだから使えんから、ここからかけようと思ってるんだけど。」

目の前の電話ボックスを指差して言った。

携帯電話が普及していない時代であったから、そんな手間があった。もちろんかける先は兄さんの家電。

『そうなんですねー。』と適当に話を合わせていると、

「でも急に女の人から電話したら親とかに彼女?とか揶揄われるかもしれんから、どうしようかなと思って。」

女子高生は手振りで大袈裟に困ったふりをしていたと思う。今の僕ならさっさと電話したら?とでも言うだろうが、当時の僕は(それは困るよね…。急ぎだったら大変だなー。)と思った。

『僕が電話しようか?あ、でも、兄さんの家の番号わからないや…。』

と言うと彼女は、

「本当!?電話番号は私が知ってるから⬜︎⬜︎⬜︎が出たら代わってくれる?もし親が出たら高校の用事とか行ってくれん?」

と嬉しそうに言った。

僕は(?正直に僕だと言ってしまえば良いのになぁ…でも僕が電話するのも変だもんな。まぁ、電話だし、いっか。)くらいにしか思っていなかった。

彼女はそそくさと電話ボックスに入りテレフォンカードを入れ、番号を押し僕に代わった。

「「プルルルプルルルプルルル…」」

昼時だから誰か必ずいるだろうけど、誰が出るのか分からず少し緊張した。

「「ガチャ。はい、⬜︎⬜︎です。」」

兄さんの母親が出た。少し焦ったが高校生のふりをしながら

『あ、、⬜︎⬜︎⬜︎にぃ、、くんいますか?』

いつもの癖で[兄さん]と言いそうになった。

「「⬜︎⬜︎⬜︎はまだ高校だけど…×××くん?」」

バレた、ヤバい!焦った僕は

『あ、はい。集落の行事の予定で…電話しました…』

つい自分であることを漏らした。

「「…もしかして、誰かに電話かけさせられてない?大丈夫?」」

何かを察したようだった。焦った僕は電話をすぐ切ることにした。

『いや、、、違います、いないなら大丈夫です。』

「「!もしかして、〇〇(姉)さんがそこにいる?」」

なんでバレたんだ!?困惑しながら

『いや、居ないよー。じゃあ、ありがとうございました。』

僕は慌てて電話を切った。

「大丈夫?」

内容を察して、少し曇った顔で目の前の女子高生は聞いた。

『あー、なんか、まだ高校にいるみたいだよ?』

「そう…わかった!ありがとうね。…誰が出たの?」

『おばちゃんだったよ?』

そう告げると、彼女は少し俯いてから

「わかった!ごめんね!ありがとう!」

彼女は差し出したテレフォンカードを受け取りながら、笑いながら言った。

『ねぇ、何かあったの?兄さんと…』

「いや!ちょっとね、喧嘩してるだけだから!高校に行くわ!ありがとね!」そういうと、彼女はバイクで走り去っていって。

(喧嘩してるなら、仕方ないか…。でもなんで親が知ってるんだろう?すごい喧嘩だったのかな…何か盗んだとか?)そんなことを悶々と思いながらでも特に気にすることなく家路を急いだ。

 

家に帰ると母親が

「あんた!⬜︎⬜︎⬜︎の家に電話したね?!」

と剣幕で聞いてきた。僅か数十分前のたった数分の出来事でなぜバレて、そしてなぜ問い詰められているのか僕には見当もつかなかった。

『かけたけど…』

「誰に頼まれたの!!!」

『いや、、用事で、、、』

「ないでしょ!!!中学生が高校生に用事なんて!!!」

『いや、あるから!あったか電話したの!』

「本当のこと言いなさい!!!」

もう、なぜ怒られているのかさっぱり分からず逆に怒りを覚えた。

『なんで電話したらいけないわけ?いいじゃん、別に!』そう言って会話を終わらせて2階の自室に戻ろうとすると電話が鳴った。

「はい、もしもし!あ、先生。どうしたんですか?息子が何かしましたか?え、プリント?〇〇さんの家に?はい。」

…しまった。タイミングが悪すぎる。まるで全てが暴かれていくその様は喜劇のようだった。

「あんた、プリント持っていったー!?」

母が大きな声で問いかける。

『持っていったー!』

もう、元気に応えるしかなかった。

「持っていったそうです!あぁ、はい。わかりました。いえいえ、はい、ごめんください。」

電話を切る音が聞こえた。

「降りてきなさい!!!!」

母の怒鳴り声が聞こえた。

仕方がないので、全て話した。全てを聞いた母はすぐに兄さんの家に電話をかけていた。僕は腑に落ちないままでいた。なぜ怒られているのか、不愉快で仕方がなかった。ただ電話しただけなのに…。

 

明月曜日、学校に行くと〇〇さんに話があると言われた。そして何故かすごく謝られた。何が起こっているのかさっぱり分からなかった。また、たまたま道で会った兄さんには「すまんかったな」とだけ言われた。顔に青あざがあった。

 

自分の周りだけで物語が進んでいく、当事者なのに何が何だかわからなかった。

 

3年後。高校生になった僕はことの真相を知る。

それは、⬜︎⬜︎⬜︎兄さんの姉が学校の司書として赴任して来たからだった。元々、死んだ姉の同級生で幼馴染だったからすぐ仲良くなり、趣味の漫画などの話をしていたから⬜︎姉さんの家で遊んでいる時だった。当時のことをなんらかのタイミングで漏らした時に⬜︎姉さんは教えてくれた。

兄さんと〇〇姉は付き合っていて、兄さんの家でHをしようとしていたところを、兄さんの親父が見つけてしまった。親父さんは高校生がまだ早いと諭したらしい。そして、付き合っていることを親父さんは〇〇の父に話したらしい。親同士はそのうち結婚するのかねーなんて言っていた折に兄さんは、長男で、〇〇姉は女姉妹の長女ということで、お互いに家業を継がせたかったらしく、そこで仲違いしてしまい、家族が交際に猛反対。2人はなんとか関係を持とうとして学校で会うようにしていたが、ついには親が学校に送り迎えするようになる始末。なんとか2人の時間を作るために、あれやこれや友人を頼ったりすることで作っていたが、兄さんの方が面倒になり、別れることになったそうな。そのため〇〇姉はヨリを戻したくて電話をしたかったところにちょうど僕が家に来て僕の出身地を知り後をつけていたということらしい。田舎のロミオとジュリエットかよ!と言いたくなるような顛末だった。真相を知って呆気に取られる僕を見て、償いとばかりにドライブに連れていってくれ、2人で気晴らしをした。

 

今はもうない光景だろう。

電話ボックスから家電にかける情事。今は個人ですぐに連絡もできるし、拒否することもできる。きっと駆け落ちも簡単に出来ると思う。選択肢が増えたように思うけれど、多分、同じようなことはどこかで起こってるのかもしれない。

 

初夏に思い出す。

 

 

好き嫌いの縄張り意識

ある人の葬儀の際に、さほど親しくなかったであろう人が嘆き悲しみ落ち込んでいる姿を見て「この人、見舞いにすら来なかったのに」と自分でも嫌なやつだと思うほどに心で悪態をつくことがあった。

1番大変な時に来なかったくせに。とか、共同事業の時も途中で投げ出してそのままにしたくせに、とか。故人と自分の関係性が冒涜されているような気になって、心の中ですごく白けた。故人の前で失礼なのは多分、自分の方だろう。けれど、どうしても許せない気持ちになった。

 

嫌いな人が、自分の好きなアーティストを好きなことを知ると白けることがある。歌や絵画、漫画、本…なんでもそうだ。好きなものの縄張りに嫌いなものを入れたくないんだろう。そして、それら素晴らしい作品や人物は自分のものでもないのに、私が1番だとその時ばかりは主張したくなるほどにマウンティングを取ろうとする、なんて浅はかなんだろう。良いと思う感性は自身のものだから、それが他人にもあったとしてもそれは作品の良さであって、クオリアは別だと割り切ればいいのだが白けて、それを手放して、記憶の底に置いては見なかったことにする。あとで後悔すると知っていても。

 

好きに対する縄張り意識は自覚して厄介だと思うけれど、嫌いに対する縄張り意識もまた厄介だ。敵の敵は味方…とはいかず、あの人言ってる嫌いと自分の嫌いは違うものだと境界をつけたがる。側から見たら同じ意見だとしても、それは違うとどうしても護りたい何かがある。共感に納得できない罠がある。

 

何かにときめいたとき、何かに怒りをおぼえたとき、それは何故か考えることが1番の暇つぶしだと思う。側から見ればなんてことないことが、意味があるような、そんなものを集めることが自我だとしたら、わざわざ縄張り意識を持って自分を守ろうとする必要はない。心から悲しめば良かったとか、楽しめば良かったとか、本当に感情を失うということは、そう言う、くだらない自意識が肥大した瞬間だ。命日のたびに後悔を持ち出して悲しむなんて、ナルシストの感傷を越えてゆきたい。

 

あなたがいなくてもなんとかやってますよ。私は元気です。問題は多いけどそれなりの毎日です。あなたといた時間をもっと悲しみたかったし、楽しみたかった。だからせめて今を生きる明日を想像して眠ります。

ただこの目にうつるだけでいい。

人の狂気が人を追い詰めるのは、何もそう大仰なことではなく、日常に粛々と存在していて、少しずつ蝕んでいく。

誰かに対する怒りとか、果たされない約束とか、叶わない願いとか、そういうものが少しずつ積み重なって言葉になって、人を追い込んでいく。

望む、望まぬとも、そうやって少しずつ壊れていくものがある。

「私が悪いわけじゃないのに」が口癖の人が常に誰かを責め続けて、結局、自分を追い込んでいくように。或いは、「あの時こう言ったから、私の言うこと聞いてよ」と人を遣おうとすればするほど人が離れて行くように。依存して生きていくことは生きにくいことだけど、それ以外の生き方を知らないし、誰も教えてくれない。どうすればいいのかわからない、沼のような生き方を何度も目の当たりにしては、心を重くしていく。

 

いつも飄々としていた人が、折れる瞬間を見た。

冗談かと思うくらい、あっという間に強い自己否定に苛まれて追い込まれていった。話ができないとは、このことだろうと、何も出来ないことに途方に暮れた。きっと近しいから余計にそうなのかもしれない、そう言い訳をして自分を宥めた。

 

HIVに感染してることを、今いい感じの人にいつ伝えたらいいと思う?」そんな事を雨の日に聞かれた。『検出限界以下なら感染させる心配はないし、相手がどう思うかはわからないけれど、ちゃんと通院して、薬を飲み続けていれば言わなくてもいいと思うよ。相手がどんな人かわからないうちに伝えるのはリスキーだと思うけど、相手がどんな人と巡り合っていたかもわからないから、今ではないかもしれないよ』と伝えた。質問をした彼は「ちゃんと向き合ってみたいから伝えたいし、終わるなら早い方がいいと思うの。」と、焦燥を滲ませて言った。

別の友人は「俺は自分の病気のことは、どんなことがあっても誰にも話さない。例えどんなに信頼できる友人や恋人であっても、人の口には戸を立てられないから誰かに間接的に知られてしまう。差別がどうとかってよりも、自分のことがコントロールできない形で人に伝わっていくことは嫌だから誰にも言わない。」と私にだけ話した。

正しいとか、正しくないとか、そういうものがない問題はいつだってあるけれど、どうしても善悪のような概念が思考を蝕む。

 

「付き合ってもいつか別れるだろうなって思うんだよね。だから真剣に恋愛できないっていうか怖い。」と友人と話した明くる日に

「いずれくるかもしれない別れの時間を恐がるより、必ずくる明日って日々を俺と一緒に生きよう。」とアニメの主人公が言った。

その誠実さが、現実にある訳ではないし、それが最適解では無いと思う。でも、誰かを思う言葉に心は響く。

 

幸せになるために生きているはずなのに、後悔しないように生きているはずなのに、恥ずかしくないように生きているはずなのに、いつも影を落とすのは、弱さからだろうか、準備不足からだろうか。

 

私が憂いたところで、あの人が報われる訳じゃない。夢なんて捨てても、無くしても生きててほしいと思うエゴだけが胸にある。愛されないと嘆いて虚しいセックスをしても、生きていてくれたらと願う。伝えたとして、届かなくても、望まれてなくても、生きてほしい。あなたの生きる未来がただこの目にうつるだけでいい。そんな自分勝手な妄想だけをしている。もう戻れない日々に似た新しい明日をまた過ごせたらどれだけいいだろうか、なんてエゴだけ伝えたい傲慢。

 

※相談の流れや、HIVに関する考えは個人の意見であり、また、これを公開するにあたり了承を得ています。

 

耳を塞いで暗闇をゆく

子供の頃はとても怖がりだった。運動神経が悪いことも、街頭のない田舎に生まれ育ったことも起因すると思うけれど、得体の知れない何かがこの世に渦巻いていてそれらにとって食われることが純粋に怖かったんだと思う。

 

「そろそろ俺は引退しようと思うから帰ってきてくれないか」と父に言われた。私は畜産農家で、漁師の家系で長男だ。私には全くと言っていいほど農業の才能がないと思っているし、だからこそその道の勉学を選ばなかった。畜産も向いていない。日々のルーティーンが決まっていて、毎日同じことをすること自体は苦ではないが、なんしか集中力と注意力が私は甘い。そのため幼少から多数の怪我を負っているし、命の危険だけでなく、失明や神経切断の危機にあってはなんとか運良く逃れただけだ。そもそも生き物の命を預かるなんてできない。そんなことを何度伝えても、理解してもらえず「長男はそういうものだから」と言われ続けた。多分、姉が亡くなっているのもあるだろう。

 

家を継ぎたくない、と言えばただの我儘に聞こえるだろうが、家を継ぐことは家庭を持ち、子供を産み育てることもついてくるだろう。ヘテロセクシュアルであればなんとも思わなかっただろう。私はゲイで、子供を養うと言うこと今のところしていない。現代であれば多少は可能だろうが、私にはそんな巡り合わせもなければ、財力もない。ないものを数えればキリがないが、たんに私がそれを選ばなかったのだ。女性と婚姻を持つ話は何度もあったがその都度逃げてきたし、子供を育てる勇気はなかった。ただの軟弱だと言われれば、それまでだが私は選ばなかったのだ。その子をまた家を継がせるという選択を迫りたくないというのもある。が、本心はただただその重荷を背負いたくないだけだ。

 

遠く離れた故郷にあまり帰らないことをよく聞かれる。「ここ都会よりも澄んだ空気でいいところでしょ?」「海も綺麗で幸せじゃない?」何百、何千回と聞いた。その度誤魔化してきたが、あんな田舎には帰りたくないと思っている。台風が来れば物流のとまるような場所。夜になれば誰1人歩いてない道で叫びたくなるほどの静寂に気が狂うのも嫌だ。

 

昔、母親にゲイであることを打ち明けたことがある。すると母は包丁を持ち出して「あんたを殺して私も死ぬ!!!産み直す!!!」と言って包丁を投げつけてきた。ムカつきすぎて「だったら1人で死ねや!」と叫びながらベッドのマットレスを投げつけたことがある。その場はそれでおさまったが母は数日で白髪が増え、私をユタや霊媒師と名乗る人たちのところに連れまわした。しまいには多重人格とまで疑いだした。そんな家にはあまりいたくはない。そして、カミングアウトはするべきだという人たちに私は納得はできない。

 

今、母との関係が悪い訳ではないが私は家を破産させたいばかりに金の無心をすることがあった。時には嘘をつき奪ったこともあった。しかし、それでも愛想を尽かさない様に苛立つこともある。そして、もっと巨額な金額を要求して本当に破産するレベルで巻き上げればいいのにそれをしない自分自身にも腹が立つ。育ててくれた恩を忘れたか、と言われるが自分たちの利益のためだけに育てられたんじゃないかと暗鬼になることもある。

愛があるからそれができないんでしょ?という人がいるが、私は言うだろう。あなたはなんてロマンチストなんでしょう?これはただの共依存の家族であって、愛なんてもんじゃない。と。

 

さて、これからどんな人生を歩くべきか。

自分の生きたい道などわからないし、それを選べる能力さえ疑わしい。万策尽きているのは甘さや故ではないかと苛まれる。誰か助けてくれよと泣き叫んだこともあったが、そんなのは無意味ない。

耳を塞ぎ暗闇を歩いて行くのか、自死しかないのか、それはわからない。

管に血の通う音

その辺に落ちている石を拾って色を塗って、バザーか何かで売っていた妹は大学を卒業してから墓屋兼葬儀屋で働いていた。7年で辞めたが常に「孤独死は惨め」と言っていた。どんなに立派な家や墓を持っていても1人で死ぬなんて惨めすぎるから、と実家に帰った。妹からはよく「あんたみたいなヤツは1人で死ぬことになるから、せめて特殊清掃分の貯金はしてから死んで欲しい」と言われる。全くその通りだと思っていると「せめて誰かと暮らして迷惑かけないようにしてほしい」と追い討ちをかけてきた。今のままなら誰にも看取られることなく死ぬだろう私を按じてか、それとも自分が面倒を抱えたくないからか、そんなことを言った。

 

案外、人はぽっくり逝ってしまう。元気だった祖母はある日脳卒中であっという間に亡くなった。突然だったのにも関わらず祖母は死ぬ準備をちゃんとしていた。遺言を書き残し、死装束も自分で縫い、葬儀の手順と各方面の連絡先を、押し入れの中に一式まとめて経費分のお金と共にしまっていた。祖母は多分、理想の死を待っていたんだと思う。九十幾年という時間が、沢山の死別が、死んだ後の理想を生んだ。幸せであったと言う誇りを持って生きていたからこその準備だったと、母は言った。

 

案外人はなかなか死なない。バタバタと私の友人達の親が倒れていく様を見るにそんな歳になったのかと哀愁がさす。九州と関西を何度も往復して、父親の病状を見ていた友人はコロナ禍に入って帰るに帰れず、結局、オンラインで葬儀に参列した。また別の友人は関西から北海道へと禍中から禍中へと移動して疲弊している。じわじわと命の炎が細くなってゆく様は、精神的にも肉体的にも金銭的にも体力を削っていく。コロナ禍が幸いとは言えないが移動費が安くなっているのも本当だ。

 

閑話休題ではないが、昔、転職活動の面接で「あなたにとっての幸せの定義とは何ですか?」と聞かれたことがある。まるで宗教じみているが、多分会社理念と個人の価値観のすり合わせだったんだろうと思うが、口をついて「会いたい人に会える時間とお金を作れること」と答えた。今でも私の考えはあまり変わらない、が、多分面接時の答えは50点くらいだったと思う。お金も時間もあるのに、会いたい時に、会いたい人に会えない。コロナ禍にしてそれはよくあることになったと思う。新しく加わったのは健康であること、だろうか。

 

ゲイの友人の兄弟が大病を患い「もしもの時は子供を頼む」と言われたのに対して「彼氏と一緒に育てる。養子にする。」と答えた姿を見た。年下の友人がとてもかっこよく見え、そして嫉妬した。そう言える家族との関係性も、その誠実さにも。その瞬間、自分には手に入れることができないんだと改めて分かった気がした。幸せではない出来事に嫉妬する浅ましさには、一生ないだろうなと、情けなくなった。

 

思い描いていた未来を歩くなんてことはほぼ無くて、行き当たりばったりの日々で、誰かの思惑にばかり惑わされて、誰かに決められているような不自由さを感じながら、それは自分が選んだんだろ?とわかっていることに感嘆するたびに嘲笑する。

 

高級なホテルに御呼ばれすることも、高級な外車で迎えに来てもらえることもなく、それなりでしかない分、そんなエスコートマウンティングをされれば「すごいね」としか返せない。そんな話ばっかりしていた友人が倒れた時に、病院にはそれらの人たちは来なかった。弱い自分を見せたくないからなのか、私がただ都合が良いからなのかはわからないが、あの時のエスコートはただの気まぐれにすぎないものだったんだな、と思いながらも、ただの承認欲求と顕示欲にまみれたそれに羨望を向けていた自分も同じ狢だと知る。

 

「若いころに色んな経験をしておくほうがいいよ」と言った人たちのお眼鏡にかなうことなく、また40以上年上の人との情事に及ぶことのできる限界年齢を迎えようとしている。きっと経験できないまま終わる人生なんだろうが、惜しくも何ともないほどに自惚れてはいる。生損なった分だけ人を羨んで、詰まらない自分を払拭する為ではなく、価値観に基づいて生きていると思うほどの理想を持っている。また他人と比べることに疲れ切ってどうでもよくなる飽き性であって幸せ者だとも思う。苦しい、つらいと言いながら同じ毎日を生きるほどの奴隷気質でもない。未来が見えなくて不安だからと、SNSに書き連ねてるなんて、それを越えて何かしたのかよと言いたくなる。

あの子もそうだった。死ぬ気がないと言いながら手首を切ると生きてる気がするって言って思いっきり切った。自分は変われないなんて、馬鹿なのかよ。ふざけるなよ。

 

平均して10ccの体液を放出するための男の情動に、そんなに嫉妬することはないと言ったところで何んの役にも立たない。だけど君が生きていたらいいなって疲れずに言えるくらいの毎日が欲しいと思う。ささやかに満たされる時間を謳歌し続けたい堕落に。

 

無題(偽の薬)

懐かしい夢を見た。

遠く離れた故郷の幼馴染みと、遠く離れた友人と近くに住む友人たちと他愛無い話をしながら食事をして、庭でただ寛ぐだけの夢。なんて事のないただの日常のような夢がどうしようもなく愛おしくて、手に入らない、過ごす事のない時間のようで起きたら泣いていた。

 

「結婚はいいもんだから、した方がいい」と繰り返し伝えてくる親に曖昧に返事をしながら電話を切る。夢に見たような時間を過ごせることがあるとしたなら、幼馴染みとにも親にも嘘つかず、遠く離れたゲイの友人や近くに住む友人達を集めて結婚式のようなパーティーを開けるような姿だろうかと夢想する。本当に叶えたい夢は現代日本の婚姻を目指した形では叶わないだろうなと、割り切って今日も玄関を出る。

本当に認められたいのは誰だったっけ?

どうして同性が好きというだけで「殺すから、産み直すから」と泣き喚かれなければいけないのだろうかと変えられない概念を恨めしく、羨ましくも思う。

 

嘘を付きたくないから、嘘を生みたくないから選んだ場所で建前と忖度を繰り返してる気がする。

後悔しないように、せめて自分には恥ずかしくないように生きてるはずなのに、カッコつけてるはずなのに、この上なく情けなくて、身勝手なダサさが身に染みる日々が続くような感覚に「何やってんだ?」って思う。幸せがピンボケする、ズレた無力感に辟易する。

 

友人が恋人の転勤を期に、共に故郷の東京に帰るという。2人で暮らせるのは、東京が故郷と言えるからなのかも知れない。片田舎で暮らすよりもたくさんの幸せが大都会にはあるんだと、恨めしく思う情けない身勝手な自分を慰めてから、笑って「元気でね」と言った。これから先彼らがうまく行くとは限らないけれど、それでも未来を背負って叶えようとするしなやかさや計画性に憧れている。自分にはそれがないから叶えられないのかも知れない。

 

音信不通だった友人から「何もしたくない夏だった」と便りが来た。時たまに音信不通になる彼と話す時間はとても楽しい。たくさんの共感が優しい空気になって笑顔を生む。けれど多分、彼にとってはそうじゃないんだろう。僕ばかりが癒されてる気がして引目を感じる。もし彼が事切れそうな瞬間がきたとしたなら、それを留める糸は僕の手の中には、多分、ない。一生叶わない片思いのようだ。

 

時が最も残酷だと思う瞬間は、同じ温度で話せなくなった時だと思う。同じ温度で話せてた時が過ぎ去ってしまって温度差が出てくると、噛み合わせが悪くなってなにかが軋む。

変わらないでいてと、強要はできないし、お互い別の時間が流れてるから仕方がない。会う時間が、話す時間が減ると、その温度差が加速するように思う。寂しさはいつだって過去からの遠近法でやってくる。

 

時の流れと共に変わっていくものならば、叶えたいことを叶えられるようにと、変化していけるように願ってやまない。それは今日をどう重ねるかでしか推し量れない。偽の薬が効くのは本当だと信じるからか、もともと身体には治癒する力があるのかはわからない。慰めなのか、励ましなのか、どうしようもない今を抱えて、好奇心に突き動かされて報われるように、成せるように自分自身に願掛けをする。