好き嫌いの縄張り意識

ある人の葬儀の際に、さほど親しくなかったであろう人が嘆き悲しみ落ち込んでいる姿を見て「この人、見舞いにすら来なかったのに」と自分でも嫌なやつだと思うほどに心で悪態をつくことがあった。

1番大変な時に来なかったくせに。とか、共同事業の時も途中で投げ出してそのままにしたくせに、とか。故人と自分の関係性が冒涜されているような気になって、心の中ですごく白けた。故人の前で失礼なのは多分、自分の方だろう。けれど、どうしても許せない気持ちになった。

 

嫌いな人が、自分の好きなアーティストを好きなことを知ると白けることがある。歌や絵画、漫画、本…なんでもそうだ。好きなものの縄張りに嫌いなものを入れたくないんだろう。そして、それら素晴らしい作品や人物は自分のものでもないのに、私が1番だとその時ばかりは主張したくなるほどにマウンティングを取ろうとする、なんて浅はかなんだろう。良いと思う感性は自身のものだから、それが他人にもあったとしてもそれは作品の良さであって、クオリアは別だと割り切ればいいのだが白けて、それを手放して、記憶の底に置いては見なかったことにする。あとで後悔すると知っていても。

 

好きに対する縄張り意識は自覚して厄介だと思うけれど、嫌いに対する縄張り意識もまた厄介だ。敵の敵は味方…とはいかず、あの人言ってる嫌いと自分の嫌いは違うものだと境界をつけたがる。側から見たら同じ意見だとしても、それは違うとどうしても護りたい何かがある。共感に納得できない罠がある。

 

何かにときめいたとき、何かに怒りをおぼえたとき、それは何故か考えることが1番の暇つぶしだと思う。側から見ればなんてことないことが、意味があるような、そんなものを集めることが自我だとしたら、わざわざ縄張り意識を持って自分を守ろうとする必要はない。心から悲しめば良かったとか、楽しめば良かったとか、本当に感情を失うということは、そう言う、くだらない自意識が肥大した瞬間だ。命日のたびに後悔を持ち出して悲しむなんて、ナルシストの感傷を越えてゆきたい。

 

あなたがいなくてもなんとかやってますよ。私は元気です。問題は多いけどそれなりの毎日です。あなたといた時間をもっと悲しみたかったし、楽しみたかった。だからせめて今を生きる明日を想像して眠ります。