想偲び

友人が1年ぶりくらいにデートをしたと言う。

「すごい楽しかった。」と言う彼は居酒屋で呑んできたらしく、陽気に話した。

『よかったじゃん』と告げると「まぁ、でもこれからどうなるかわからないし、何より相手さ、前付き合ってた人6年付き合ってたんだって。そんな愛情深い人とは釣り合わない気がするわ。」と控えめに言った。その後はあまり連絡もしていないみたいだが、何かが彼を臆病にしたのか、何かが面倒臭さに拍車をかけたのかはわからないが、刹那の思い出に変わるんだろうか。

 

最近、大切な人を失った人の部屋にお邪魔することがあった。部屋に入ると、焦燥というか哀愁というのかわからないが、そんな雰囲気があった。「亡くなったんだよね。」と、天井を向きながらつぶやく主の言葉を聞きながら片隅にある写真の人物と目が合う。慰めにもならないほどの祈りを込めて、私は目を閉じた。

 

同性婚に賛成なん?』と推進活動をしている人のスキャンダラスなニュースを私に見せながら聞いてくる人がたまにいる。まるで情報弱者を論破してやろうと思っているのか、或いは、貞操の緩い自分達を自嘲するかのように聞いてくる。

私自身がしたいかどうかは置いておいて、私は賛成だよ。と答える。理由を聞かれれば、私の見てきた人々の苦悩を話す。

 

ある人は恋人が交通事故に遭い意識不明になった際に、家族ではないからという理由で面会できず、そのまま亡くなってしまった後、共同で購入したマンションを何年も連絡さえなかった親族と遺産相続で揉めた挙句、手放した。悔しいと言って泣いた姿を私は見つめるしかできなかった。

 

またある人は、パートナーが亡くなり親族に知らせたところ「あんたみたいな汚れた人に出会ったからこの人はホモになったんだ!恥を知れ!」と言われ、葬儀への参列さえ許されず、そのままとなった。

 

もう10年以上前に聞いた話だが、故人の意向を明確に記した遺書などが正しく準備できていれば、または準ずる制度を利用していれば避けられたことなのかも知れないが、結婚すれば得られる権利を、ただ奪われていく理不尽さを解消できるなら私は賛成だ。

 

貞操が緩いとかすぐ離婚するとか、そんなことよりも、死にゆく人が、瀕した人が、残される人に何かできる方法を作る方が大事だと思う。

 

それを自分自身が得たいとはあまり思わない。私自身の家の問題に誰かを巻き込みたくないから、私が同性婚をしたいとは今のところ思わない。この気持ちがこの先、変わることもあるかもしれないし、もしかしたら変わるよう願っているから賛成なのかもしれないとも思う。

我儘かもしれないし、エゴばっかりで、生産性がないとかそんなん置いといて、ただ悲しい話を聞きたくないだけかもしれない。

 

故人の匂いが残る部屋を出て、身体は熱ったまま師走の雨の中、家路を歩きながら、思い偲ぶ。