勇気あるもの

あれは多分、10数年前だったと思う。ある講演会の後に目を潤ませた彼に握手を求められた。私はただの会場スタッフだったのだが彼は目頭を押さえながら「貴重な機会をありがとうございました。」と言った。いや、私は何も…と言ったのだが彼は自身の半生を語った。ゲイであることを今までずっと言えなかったこと。ある日仕事を辞めて自分のやりたいことをしようと決めたこと。泣きながら家族にカミングアウトしたこと。ゲイを取り巻く色んな社会問題に対して勉強しようと来たこと。これから福祉の仕事をして地元でやっていこうと思ったこと。彼の熱意に圧倒されながら心の中では(こう言う人は燃え尽きるのも早いけどなぁ。)と思いながら愛想笑いをしていた気がする。

 

その後、彼は事業所を立ち上げLGBTsに関わる福祉の問題に対して真摯に向き合っていった。仕事で関わることも増え、電話で相談をすることも多くなった。初対面の時に思った失礼な第一印象のことは、結局一度も彼に伝えることはなかった。すごく明るい彼に会うことでそのパワーに元気づけられることもあったが、その真っすぐさがとても眩しく、そして羨ましく思うこともあった。素直に家族に話し、自立して生きていく姿は嫉妬さえ覚えるほどだった。

 

そんな彼が「また会いましょう」と電話を切った数日後に、急逝するなんて想像もしなかった。訃報を聞いた時は混乱した上、仕事上でもトラブルがありそれに追われ続け結局さよならさえ言えなかった。混乱の中過ごした1年だったと思う。追悼イベントの中で色んな人が来訪する姿を見つつ、私はやっと初めて寂しくて、悲しかったんだと、自覚した。

 

誰かが亡くなると、変な縄張り意識と関係性から素直になれないことが多い。あの人の顔を立てなければみたいな気持ちで、関係性に上下を作りそれに似合う立ち振る舞いをしてしまう。あの人の方が仲良かったのだから出しゃばるわけにはいかないとか、あいつはそんなに関係性ないくせになんで泣いてるんだとか、そう言うことを思うことで泣くことも、偲ぶこともできなくなっている気がする。心がとても不自由だ。ただ素直に感情を表すことができたのなら、どれだけ自分は救われるだろう。と、ひとりごちたところで、結局は自分のことしか考えていないんだなと自嘲する。前もこんなことを書いた気がするが何もかわっちゃいない。

 

勇気あるものは、自分の感情を素直に表す覚悟を持っているのかもしれない。誤解を恐れないと言うより、誤解をも許容して乗り越えようとすることかもしれない。彼の姿は私にとってまさに勇気あるものだった。