時はすべてを連れてゆくものらしい。

煙草を開封した最初の一口目がおいしいという人がいる。
煙草がもうないと思っていた時の一本が一番おいしいという人がいる。
何日も何年も禁煙して吸うのがうまいという人がいる。
煙草一本こんなにも価値観が違うのにエゴを押し付けるのは何だろう。

 

昔好きだった人に「俺はこれから誰とも付き合わない。」と言われた。今年のバレンタインは誰かにあげるのか聞いたら「予定はない。誰かにあげるの?」と言っていた。『え、〇〇君と付き合ってるんじゃないの?』と口をついて出た疑問に、かぶりを振るように「別に彼氏とかじゃないから」と返事がきた。

ずっとずっと彼には幸せであってほしいと願っていた。私の願うものは彼の憂いが晴れることなはずなのに、彼にとっての幸せを考えるより先に、好きな人と一緒に暮らし、支え合う姿が幸せだと映し見ていた私の理想があった。私の幸せを叶えられるように願っていた。まだ彼のことがどこか好きなんだろう。未練より稚拙な執着だ。

 

家に来るたび酒瓶を持ち込むセフレから「大阪を離れることになりました。」と言われた。行為の前の熱から鳩が豆鉄砲をくらったような顔でをしていたと思う。セフレは「もう少し大阪にいる予定だったんですが、内示があって…すごく残念なんですが。もう少し早く出会っていたらもっと会えたのにな…」と言った。なんて言えばいいか、自分の感情さえよくわからないまま『寂しくなりますね』と注がれた酒を呷った。セフレには遠距離の彼氏がいたが「お互い気にしないんで」というからあまり気にはしていなかった。お気に入りくらいでいたつもりだったのだが、すごく切なくなった。淋しいと久しぶりに思った。純粋な恋心なんて忘れていたつもりで少し冷めていたはずなのに、なぜだか「予定はない。誰かにあげるの?」と聞かれた言葉を思い出していた。あぁ、結局のところ、この人も自分のもとに帰ってくる人ではなかったんだと落胆したのかもしれない。もしくは日常のないヤるだけの関係が少しずつ変わることを望んでいたのかもしれない。

 

『幸せであってほしい』と思うことは最後の祝福のような呪いだなと思う。『毎日が幸せでありますように』とそんなことが幻想だと知っているのに、私の杓子定規はいつも興奮と好奇心が満たされることを願う。

これがエゴというんだろう。

どうせならそんなエゴでさえ認められたらいいのに、こんなことを書いている。
どうして世の中に溢れる歌を代弁者の声にしながら、自分の言葉ばかり書きたいのか。

自分でも小さなヒーローになれると信じているのか?

眠れない夜に一緒に外を歩くくらいの大らかさを持って触れたい。
遣る瀬無い夜の叫びを聞きながら、頬を撫でるくらいの自惚れを自覚して微笑みたい。

もう会えない人の指を舐めた味を思い出したい。

細かいところは忘れているのに、どうして、寂しさだけは残るんだろうか。

忘れたくないんだな、と独り言ちる。