あなただけがあなたの物語を書けるのよ。

駅の構内を歩いているときに、床のタイルが端のほうだけ黒ずんでいるのを見て不思議に思う。

人通りの多い真ん中の部分が、白く新しくも見える。人の歩かないところの方が黒ずんでいる方が本来の色なのかと見紛ってしまう。

いつかこのタイルの上に横になる日が来るんだろうか。そんなことを思いながら、そうなっても死なないんだろうなと、自分の強かさに辟易しながら眺めていた。

 

若い時に「気のおけない友達が欲しい」と言うと、大人はいつも「自然にできる」と言っていた。方法論を知らないのか、伝え方を知らないのか、教えてもらった覚えはないが、気付けば自分もできていた。出会ったのは偶然が重なったからで、会話で価値観をすり合わせたんだと思うけれど、それをうまく説明するには話が長くなりそうで、若い人に同じように聞かれると(私の話を長々と聞きたいか?)と、端的に話そうとしてしまう。要は説明が説教臭くなりそうで、面倒に思われたくないんだと思う。だからといって「自然にできるよ」というのは少し、乱暴な気がする。「また話したいなって思える人と、約束や誘いを、適度に交わしたり断ったりして、間柄を作ることが大事だと思う。」と伝えるが、“それ”をどうすればいいのか、と聞かれると少し困ってしまう。それはあなただけの価値観と距離感でしか測れないんじゃないかなと思いながら、あなたの好きなものをアウトプットしていくことが大事なんじゃない?と話した。

自分の経験を話すことが、そんなに役に立つと思えない。相手は私ではないし、私より若く、魅力的だからそう思う。彼の願うものの答えに当てはまる気がしない。何より私が先人たちに語られた物語が私には当てはまらなかったから、余計にそう思う。彼の求めているものはなんだろうか?まわりくどく、好きなものの話をしてしまって、話が霧散しそうになるが、答えは彼の中にあるから気付いてもらう以外ない。

 

心身の不調を訴えた友人に、毎日のように電話をかけ、とりあえず体のチェックしてもらった方が良いと説得して、病院に行かせた。ただの精神の不調かと思いきや、癌が見つかった。

希死念慮に苛まれていた時期よりも癌が見つかり、痛みに耐え、進行速度と死について考えている今の方が、活力があるように見える。多分、具合的な不都合が目の前にあるからだと思う。

治療には金がかかる、がん保険に入っておけば良かったと言いながら、私の吸う煙草に目を向ける。煙草は辞めたくねぇな…と言いながら煙をふぅーと吐いた。あたしは悪い友達だ。

 

大学時代の友人が旦那に首を絞められたと言う。「私が悪いのかな?」と言う彼女は旦那のことが好きなんだろう。「私が怒らせて喧嘩したから」そんなことを言っていたが「あたしの他の友人の旦那は、貯金をパチンコで溶かしちまうような奴や、訳分からん昔の女に付き纏われた挙句家に帰って来なくなったりした奴とか居たけど、妻に手を挙げるようなことをした奴は1人もいないから。」と言うと、少し正気に戻ったみたいだった。遠く離れているからすぐに飛んではいけないからか、あたしは熱くなってしまった。ただ単に自分の非力さを棚に上げてそんなことを言ってしまったのかもしれない。

 

「運命に選ばれる瞬間」というものが多分、世の中にはあると思う。それは悲恋の始まりかもしれないし、それは世界を変える発明のための出会いの瞬間かもしれない。

“いい友人”とは何をもって定義するのか、今だによくわからない。ビリオネアの言うことには信頼できる人となるらしい。裏切らない人ということなんだろう。それは多分、約束を守るとか、そういうことだけではないと思う。悲しんでいるときに手紙を書けるような、届くような、そんなシンクロニシティができてしまう、そんなもんじゃないかと思う。

 

高校時代の最後の席を、もう思い出せないでいる。みんなが幼馴染だったクラスメイト全員の名前さえ、そらで言えなくなった。あぁ、あいつはどうしてるかなんて、気にも留めない。連絡取るのは数人しかいなくて、時折入るメッセージ。飲み屋で知り合った子にお金貸してと言われて、貸せるものなんてないと笑いながら断った。どうしてるだろう?きっと私を忘れてるだろう。

 

白んでくる通夜の明けの朝に、献花される花の一つを贈れる友人ではありたいと思う。