明日を思うのが苦手な僕ら

春先の移動にはバスを使うのが好きだ。バスの窓から見える川沿いの桜が少しずつ芽吹いてゆくのを、暖かくなった日差しを浴びながら、橋を渡る人々を眺めて、何か昔の思い出と結びつけながら、明日に期待をする。開けた川沿いの公園から雑然と整列したビル街に近付いてゆく。

 

古い写真を眺めて友人達と懐かしいねって話すと「この頃は可愛かった」と言われる。皆、可愛くて溌剌としていた。後悔なんて微塵もないように澄ましている自分を少し羨ましくも思うが、今なら笑えるのになぁと、可愛げのなさを野暮に思う。

 

ありがたいことに自分を好いてくれている人がいる。決して悪い人ではない。本気になりきれないわけではない。怖いのかもしれない。もう誰とも付き合う気がなかったはずなのに、どうして、どうして、こんなに苦しいんだろうと思う。日々は流れてあっという間に過ぎるのに、僕だけが取り残されているようだ。恋人を亡くした人も、父を焼いた人も、余生が短い人も皆素敵だった。楽な関係を、後腐れない関係を望んでいたけれど皆どうしてそんな話をしてきたんだろうか、と思う。僕が話させたのかもしれない。そして、それなりに卒なく付き合ってきたと思う。泥沼みたいな恋愛の記憶が脚を重くするのかと思ったが、どうやらそうでもないと思う。

 

実家の父が足を悪くしたと聞いた。「そろそろ戻ってきたらどうだ?」と、弱々しく言う。もうここにいるある理由もないだろう?と言う。自分が生きにくいと思う町にそろそろ戻らなければいけないのかと心に影が落ちる。いる理由なんて、まだ見つけてもいない。ただ堕落して生きているのに、何もなしてないのに残る理由があるのか?と心の中の理性のような自分が言う。そんな中、思う。誰かと暮らせたら、みんなと暮らせたらどんなに楽だろうと。そんな我儘に誰も巻き込みたくないから曖昧に生きてるんだろう。何も決めなかったから、今、何だろうなと、情けなく思う。

 

必死に生きた人の死化粧を見たことがある。

満足そうな顔とは思えなかった。

安らかだよね、とか、幸せそうだねとか、そんなことを言う人たちの中で、どうしても納得できない顔をしていたと思う。もっと話したかった、もっと声を聞きたかった。もっといろんな感情を共有したかったそんな願望ばかり浮かんで、悔しくて悔しくて泣いた。後悔と少し違う我儘な感情があった。もっと生きててくれよと、叫びそうだった。望んだように生き損なった過去が胸の辺りで悲鳴をあげる。吐き気がしてくるのを我慢してたら涙だけが止まらなくなった。

雨粒が桜の花びらを落としていく様を横目に、この悔しさは何だろう、どうすれば拭えるんだろう。そう思いながら誰かを思うなんてできないだろう、と思いながら、誰かの幸せを願っている。