愛する人が遠くで寂しいという時、
僕は何ができるのだろう?
飛んでいく事も出来ないとき、
言葉はどれだけの力があるのだろう?
むしろ、無力?
抱きしめられる距離は、触れ合える距離は、
時に大きな力になるけれど、切なさも産む。
暗い海こそ息吹を感じる。生きている感じがする。
それに似てるかもしれない。
飲み屋やクラブでもそうだけど、1人で行っても友だちがいて、一緒にそこで騒いだり盛り上がったりしていた。だんだんとひとり、ふたりとこなくなって、ある時、誰もいない…ってこともあって。新しい友人を作ったりして、それなりだけど、音楽や手酌の中でふと恋しくなる。
連絡先の交換なんて後回しにしちゃってたことを後悔しながら、それでもまたどっかで会えるだろって、SNSで繋がってるからと、楽観的に考えてる間に、自分も忙しくなって結局何年も会ってないなんてことがザラにある。
また会いたいなーなんて思う時には、好きだったイベントや通ったお店も無くなって、あれ、次はどこで会えばいいんだっけ?なんて思うこともあって、「出会いを大切に」とか“安い言葉”って思ってたものが少しづつ身にしみてわかってくるような、そんな日々に。
大切な思い出だったんだなって、メランコリックでセンチメンタルな気持ちを抱えてるけど、街で偶然すれ違っても、誰かわからないこともあるかも知れないから、なんらかのつながりは持っていたいって思う。
君の好きなものはなんだったっけ?
初めてのHの話とか、カムアウトの話とか。
職場での生き辛さと乗り越え方とか、そう言うの。
だらだら話してる時に、ふっと、あの夜を思い出す。ばっかみたいな話で笑い転げて明ける空睨んで今日を許した。そんな日々に。
思いが距離を越える方法。
今というときはとても贅沢だ。
けれど新しい切なさと喜び、楽しみと哀しさを生み出す。
呼び出し音の楽しみ。
寂しがり屋が生み出したような市場。
何故寂しさは置いていかれるのだろう?
思いが距離を越える方法
思いが距離を越える方法