五色を愁う

終バスの端の席に腰を下ろすと、少しだけ香水の匂いがした。匂いは記憶と密接に繋がってると言うが、いい思い出も、悪い思い出も選べない点においては記憶は意地悪だと思う。いい思い出の分だけ、匂いも、眺めも、音も、感触も、味も、言葉も全て鮮明でいてくれればと思うのに、少しだけ曖昧で欠けている。

 

五体何れかもしくは感覚のどれかを無くしても、一緒にいたいと思う人と結婚しなさいと親に言われた。何をカッコつけたことを言ってるんだ?と、当時は思った。自分が支える側に立った話ばかりされているようで不愉快だった。いつか自分が何かを失った時、そんな自分が愛されるのか?と思ったから。そんなことを思い出す度、恋愛をすること自体がとても重く、怖くなる。非日常の中で育む愛の讃歌ではない、日常のどろりとした部分を引き受けることが私はとても苦手なんだろう。

そしてこうも思う。五体がない人や感覚を失った人に対して、心の奥底では同情や差別意識を持っていて、現存の“自身”を失うことの恐怖を持っているんだと。そんなことを思うたびに、福祉に関わる仕事には就けないとわかる。

 

確か、別の友人結婚式の前日に式場へアクセスが良いから泊めてもらった時だ。

「私は早く死にたい」とふと言った私に友人は『何?今、鬱なん?』とめでたい日の前にわけわからんことを言い出した私に友人は、ウクレレを弾きながら言った。「いや、そう言うわけじゃないけど、結婚とかって責任を背負う共同体を作ることが面倒っていうか、すごいなっていうか」『ふぅん?』とつまらなそうに言った後に『で、ほんまはなんて思ったん?』と、ウクレレを脇に置いて真剣に問いかけてきた友人の視線を晒して、天井を見た。

「結婚とか、同性婚とかって、その瞬間は幸せだと思うけど人生のその先…浮気とかそーゆーのは置いておいて、老いて体が動かなくなった時、もしくはボケた時に、相手を愛せるかよりも、自分が愛されるのか、とか思っちゃう。なんか、相手のこともわからなくなったり、わけわかんないことするくらいなら、自分で死にたいなって思うんだよね。そしてこんなことを思うってことは心のどこかに、完璧な自分みたいなものがあって、それが崩れるのが嫌だし、本当は相手がそんなことになったら、介護とか付き合うってことを放り出して逃げ出すんじゃないかと思うから、誰も愛せないんじゃないかと思う。」

『つまり…ボケたり、老いたら、死にたいっちゅーこと?』

「うん。」

そういうと、無言になった。

『とりあえず寝よや。』

そういうと、友人は電気を消して布団に入った。私は連なって布団に入ってまた色の変わった天井を見上げた。

『なんかな。』

彼が背中越しに言った。

『考えすぎなんちゃうかなって思った。いや、悪いことではないけど。起こってもいないことを心配するより、好きな人の今を大事にすることのほうが、大丈夫ちゃうかな。答えは先にしかないからな。』

そう言って寝入った友人の背中を見て小さく頷いた。

何年も前の会話だけどたまに思い出す。

件の友人は10数歳年上の外国の恋人とパートナーシップを結んで、家族同士顔合わせをして一緒に暮らしている。久々に会った彼の左手の薬指に光る指輪を見て、その輝きが色褪せないことを祈った。