beautiful Trauma

熱いお茶を飲めば内臓は暖まる。恋をすれば、心臓が熱くなる。いたいけなものを見れば、心の温度は上昇する。問題は、体のはしっこなのだ。触れてさすらなくては駄目。しかも、他人の手によって。』そう書いた山田詠美の物語は浮世離れしながら、でもどこかにありそうなラブストーリーだ。甘美な物語とは裏腹に、現実の“冷え”は心から熱を奪って、仕舞いには手先が凍てつく。辛い現実は物語のように甘くはない。冷えた友人の手は本当に悲しいくらい血の気がなかった。

ただただ悲しく辛い話は、胸の奥底で鍵も掛けて海の底に沈めたつもりでいた昔の記憶を思い起こさせた。帰宅してからは、お腹が空いてるのか、自分が何がしたいのかわからなくなるくらい、冷たい部屋でしばらく呆然とした。頭が痛い。自分の体の端から熱が逃げていくのがわかる。このままじゃ駄目だと目の前の散らかった部屋を掃除する。考えないように、考えないように床を磨いて空気を入れ替える。深呼吸しながら、少しずつ片付けて、掃除をする。思い出したくない不安だった気持ちや、自分の不甲斐なさ、相手に対する責めるような感情。思い出ではない、苦しい記憶だけがフラッシュバックする。その度に不安になるからひたすら床を磨いた。ひと通り片付いた部屋は快適で凛と冷たい空気が、さっきまでと区切りをつけたように澄んでいる。心ははれない。

恋愛に浮気はつきもので、ましてやオープンリレーションシップ掲げる人々を見ては自分に向かないかもなと思う。

『誰かを愛するというのは単なる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。』と説いたエーリッヒ・フロム。愛は言葉で表すのではなく行動であると、曖昧な愛を宗教的な枠組みではなく、哲学的思考で表したが、真価は傷付いた時にこそ試されるのだと、私は思う。どうにもできない事象は自分のどうにかできる範囲しか対処できない。だからせめて体の端だけは冷えないようにいて欲しい。“たかが愛”と歌う中島みゆきが一人で生まれてきたのだからと言う歌詞を作ったのは、自分を大切にしてくれと、生き方は人に習っても、倣うものではないということではないかと、思いたい。

 

頭が割れるように痛む中で、やっと拵えた食事を器に注ぐ時に軽く火傷をした。末端が冷えているから痛みにも鈍い。火の通り過ぎた肉と野菜を口に運んで、それでも明日は来るから、生きるんだと強く思う。私の好きな人は、嫌な記憶を私にくれた人ではない。末端を暖めてくれた人だと、何度も思い返す。トラウマは身勝手に暴れて吐き気さえ起こさせる。それでも。まだ、感覚がある。痛みがある。考えることをやめない、やめられないから今がある。友人の手に血が通うよう、祈りながら、泣いた。